1971年から毎年同地で開かれているこの年次フォーラムは、世界中から政府要人、著名な経済学者、政界や財界の超大物ら、数千人が集まって連日世界経済について話し合うという大規模な催し。
当然のことながら、今年のフォーラムのテーマは、大恐慌以来と言われている金融市場の混乱とグローバル経済の失速にどう対処するかが焦点となりそうだ。
このダボス会議、本来の趣旨は、経済問題を話し合うということになっているんだが、ここ数年の傾向として、【経済会議にかこつけた成金パーティ】という別の顔も、見え隠れしていた。
しかし、今年は、パーティでハリウッド俳優と肩を並べてドンちゃん騒ぎ、どころじゃない。
とりわけ、金融界の大物達はバケツで冷や水ぶっかけられたような状態で、これまで毎年欠かさず出席していたウォール街の大物達の多くが欠席するという。
まず、去年、スーパーモデルとパーティでいちゃいちゃしていたリーマンブラザーズの元CEOリチャード・フルド(Richard Fuld)。彼は、スキーの季節が来る前に、会社ごと葬り去られちゃいました・・・。
次に、メリルリンチの元CEOジョン・セイン(John Thain)。バンカメに買収されたメリルだが、買収後もメリルのToxic Assetsから汚水のような損失がダダ漏れし続け、数日前の22日付けでセインはクビになった。(筆者から見たら、バンカメのCEOも同罪じゃないかと思うが、この点については今日は触れない。)クビになったら、ダボス行きは当然「ドタキャン」ですよね。
このほかにも、政府による救済基金T.A.R.P.の点滴を受けながら生き延びている大手金融機関のCEOの皆様も、そろって欠席を表明した。
ゴールドマンサックスのCEOロイド・ブランクファイン(Lloyd Blankfein)、シティグループのCEOヴィクラム・パンディット(Vikram Pandit)、モルガンスタンレーのCEOジョン・マック(John Mack)・・・みーんな欠席。
これら大手金融機関はみなダボス会議の重要スポンサーばかりであり、そこのCEO達といえば、近年はダボス会議のトップスターだったんである。それが今年はほとんどが欠席。アカデミー賞に主役級の俳優が誰も出てこない、今年はそれに近い状態だな。
(ま、会社がこんな惨めな有様で、ダボスのパーティなんかにノコノコ顔を出したら、何言われるかわかったもんではない。)
欠席するのは金融機関のCEOばかりじゃない。グーグルやソニーやシェブロン、といったグローバル大企業のCEO達も今年のダボス出席は見合わせることにしたらしい。
グーグルなんて、去年のダボス会議では「パーティの主催者」になって、一本1000ドルもするようなワインをポンポンあけて、大盤振る舞いだったんですぜ。
自由主義経済の悪い部分が一気に噴出してきた今年のダボス、キャピタリズムを謳歌していた企業群のトップ達が軒並み勢いを失った。
現代版ブルジョアジーの崩壊。
同時に、スーパーモデルのクローディア・シファーや、U2のボノや、女優のアンジョリーナ・ジョリーも、今年のダボスには来ないんだって。
そもそも、ハリウッド女優やロック歌手が何故に経済会議に出席してるのかよくわからんが、ヘッジファンドなどの成金連中が山頂から下界に堕ちていった途端、彼らと同族意識でつるんでたエンタ界の大御所らも居場所がなくなった、ってことか。
その代わり、ことしのダボスの注目のスターは、「アイボリータワーの住人達」にバトンタッチされた。
アイボリータワー(Ivory Tower)・・・
聖書にでてくる「象牙の塔」は高貴で穢れのないことの象徴とされるが、金融スラングでアイボリータワーと言えば、FRB連銀や政府系監督機関や調査機関など、どちらかといえば派手な世界にはあまり縁のない、天上人風のアカデミックでインテレクチュアルな世界の皆様を揶揄して形容することが多い。
金融市場の崩壊を引き起こした要因のひとつとして、市場がグローバル化したにもかかわらず規制当局は各国まかせが現状で、世界規模で強制力のあるレギュレーターが不在だったことが大きいというのは、市場関係者の総意となっていることだし、今後は、「グローバル・レギュレーター(Global Regulators)」の誕生に向けて各国が力を合わせましょう、とうなづきあっている。
でも、アイボリータワーの住民といえども、たとえカネはなくても欲のほうは人間らしくシッカと持ち合わせているから、「権力」という名の欲を振り回し、自己防衛に走って他との協力を拒む、というのは政府系機関世界共通の問題でありますね。(そのいい例が国連。アメリカの銀行規制当局がいつまでも一本化できなかった理由もこれだしな。)
権力へのこだわりを捨てきれない皆様が、「グローバルで手をつなぎ世界の経済と金融市場を守りましょう」と集まったはいいが、どこまで協調体制を敷くことができるか、まずはダボスでお手並み拝見か。
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さて、スイスのダボスといえば、1924年に出版され、20世紀のドイツ文学に多大な影響を与えたとされる、トマス・マンの文学作品『魔の山』(ドイツ語原題『Der Zauberberg』、英訳題は『The Magic Mountain』)の舞台となったことで有名です。
(『魔の山』のあらすじは、どなたが書かれたか知りませんが、ここのブログに非常にうまくまとまっています。ご参考まで。http://www.geocities.jp/pluto_naoko/november-22th.html)
『魔の山』が書かれた当時はペニシリンが発見される前で、結核は『死に至る不治の病』として恐れられ、アルプルの山間にあるダボスは結核患者のサナトリウムがある療養地として知られていた。
『魔の山』の主人公ハンスは従兄弟のお見舞いに訪れたダボスのサナトリウムで、自身も結核にかかっていることを知らされ、そのまま療養所に滞在することになる。そこは、俗世とは切り離された時間が止まった空間で、ハンスは滞在中に、自分がこれまで知らなかった世界に住む人々との交流を通じ、戦前欧州のブルジョアジーを垣間見る。
アルプスの山頂のサナトリウムは、結核という「死の病」を患ったブルジョア階級のたまり場だった。
一方、麓の低地("the low land")は、「下界」であり、「生」であり、「庶民」であり、「俗世」であり、低地から山頂にやって来たハンスは、雲の上で死を待つ人々のとりことなってゆく。
作者トマス・マンは、後日『魔の山』が英訳されたとき、こんなことを述べたそうだ。
"What Castorp learns to fathom is that all higher health must have passed through illness and death. [...]. As Hans Castorp once says to Madame Chauchat, there are two ways to life: One is the common, direct, and brave. The other is bad, leading through death, and that is the genius way. This concept of illness and death, as a necessary passage to knowledge, health, and life, makes The Magic Mountain into a novel of initiation."
主人公ハンスが魔の山で学んだことは、「より優れた健康は病と死をいったん通じてこそ得られる」ということ。そして、この世には2つの異なる生き方があって、ひとつは「ありふれていて、直接的で、勇敢な」生き方。もうひとつは「悪に満ちて、死へとつながる」生き方だが、これこそが天才の生き方であり、病と死というコンセプトは、知識・健康・生を手に入れるために通らねばならない道なのだ、ということ。
『魔の山』には明確なストーリーがなく、観念的な教養小説とくくられる文学作品であるが、上のトマス・マンの言葉を読むと、死の淵に立たされているような現在の金融市場の状況となにやら重なって見えてくるではないか。
ダボスは、戦前のブルジョワ層に、「結核を治す力がある魔法の山」と信じられていた場所だ。
死の病を治す力がある山に、今日からひとびとが集まって、どうやって世界経済を健康体に戻すことができるのかを話し合う。
トマス・マンが言うように「病と死は、より優れた健康と生を得るために通らねばならぬ道」だとすれば、このサイクルの次に来るものは、そう捨てたものでもないかもしれない。
しかし、この物語の終わりに、ハンスはふたたび「死に満ちた時間の止まった空間」から「低地」へと戻ってゆくのだが、そこでは第一次世界大戦が勃発し、ハンスはまもなく戦火で命を落とす。
「下界」には、戦争という、病とは別の死が待ち受けていたのだ。
我々「下界」の住民には、ちょっとばかり気落ちのするエンディングではある。