Tuesday, April 26, 2011

チェルノブイリ事故25周年

25年前の今日4月26日、ソビエトのチェルノブイリで史上最悪といわれる原発事故が発生した。

福島原発の問題解決がほとんど進展していない中での、25周年記念。

今日Nature誌のサイトに25周年を記す記事があり、その中で、福島原発の事故は、a bitter irony (苦々しい皮肉)と表現された。

(Nature, 4/26/11)

皮肉というのは、福島原発の事故勃発で、長いこと人々の記憶から薄れてきていたチェルノブイリ事故に再びフォーカスがあたることになり、ほうぼうからチェルノブイリ事故の研究用にと多額の寄付が寄せられることになりそうで、福島での事故の「最大の恩恵」を受けるのが、よりにもよってチェルノブイリ、という意味だ。

この記事に『チェルノブイリの遺産』という別記事へのリンクが紹介されていたので、合わせて読んだ。

(Nature, March 2011 issue)

記事の内容については、また時間のあるときにでも書くとして、今日は、そこにあった年表だけ紹介したい。

福島原発が撒き散らした放射能は、チェルノブイリのそれよりもずっと少ない、ということはこの記事でも述べられているし、日本のケースはまだ起こったばかりで、いま、なにがどうしたと素人の私がわめいたところで、どうなるものでもない。

ただ、この年表をみながら思ったことは、事故から25年も経ったいまなお、原発施設近くの町はゴーストタウンのまま、チェルノブイリ事故のクリーンアップが「完了」するのは2065年予定という、原発事故の【傷跡の深さ】のほうだ。

これが、その年表。(横に拙訳を入れた)

まずは、事故が起こった年、1986年。


その後の流れ・・・


2065年まで、あと、50年以上―。

福島の事故の後始末にも、非常に長い年月がかかることは必至。日本国はこうした事故を2度と起こさないためにも、また、チェルノブイリで長いこと忘れられていたという放射能の人体に与える健康被害の研究や、その他高度な専門的研究も含め、今後、膨大なおカネを投入し続けてゆく必要があるのだ、ということを改めて思い知らされた。

(大変読み応えある記事で、筆者も、もう一度じっくり読むつもり。)

そしてさらに、チェルノブイリ事故が残した、別の大きなレガシー(遺産)―。

それは、この25年間で新しい原子炉の建設が世界中で目立って減った、という事実だ。

下のグラフは、横軸が原子炉の年齢、縦軸が原子炉の数、である。

これをみると、事故が起こった25年前付近をピークとして、より若いリアクターの数が目に見えて減っている。


原子力発電のクリーンエネルギーという側面を強調した「核ルネサンス」などという言葉がもてはやされ、さらには、経済成長めざましい新興国の電力需要を支えるために思わず目を見張るような数の新原子炉建設計画も出され、それらに興奮した証券市場は、思惑先行で沸きあがり・・・と、福島原発事故前までは、ここ数年、かなり調子いい話ばかり実際やっていたんである。

だが、チェルノブイリ直後からこれだけのインパクトが実際にあり、今回の事故が上塗りともなり、新原発建設が数年前の金融屋の思惑通り盛り上がるとは、考えにくいという気もする。

また、これは、老朽化した原子炉ばかりを抱える米国にとっては、政治的にも経済的にもさまざまなインプリケーションのある話である、ということだ。これについても、もう少し自分の頭を整理してみたい。

最後に、ゴーストタウンと化したプリピャチの街の、今の写真を。(Tumblrで以前紹介したもの)



写真はBBCのフォトアルバム『Chernobyl's Lost City』から。(←この写真集、重い写真ばかりです)

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